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「こんなスポーツほかにないだろ。」競輪の歴史、前編

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こんなスポーツほかにないだろ

「こんなスポーツほかにないだろ。」というキャッチフレーズでCMを流している競輪。JRAと競艇が、旬の俳優を使ってCMをバンバン流しているのと比較して、少し寂しい絵柄なのは、やはり売り上げで後塵を拝していることが原因だろう。

しかし、雀聖と言われた阿佐田哲也をして「ギャンブルの王様」と言わしめ、売り上げも1970年代はJRAよりも多い、まさに公営ギャンブルの王だった。しかし、その後、急速に人気が無くなり、今やJRAはもちろん競艇にまで追い抜かれ、その売り上げはJRAの3分の1、競艇の半分までに減ってしまった。

1948年に誕生した競輪は、中央競馬の前身である国営競馬の控除率が34.5%だったのに対し25%と低く抑えられ、また選手の力量にも差があるうえ、それを観客が理解していないことなどもあり、滅多に万馬券が出ない競馬とは違って万車券が続出したことで、あっと言う間に人気となった。

鳴尾事件

しかし、急激に人気を得たこと比して法整備や運営が追い付かず、さらには選手の教育不足や観客の自転車競技特性の理解不足などからしばしば暴動事件が発生し、世論は競輪廃止論議が盛んになり、開催日の縮減などを余儀なくされ、ついには運営が立ち行かず廃止となる競輪場が相次いだ。(1951年松本競輪場、1953年松江競輪場)

もっとも、有名な鳴尾事件について触れる。鳴尾事件は、1950年9月9日鳴尾競輪場(現西宮市)で起こった騒擾事件。本命選手が自転車の調整のためレースを中止したにもかかわらず、レースは継続され、観客がレースのやり直しを提案するも払い戻しが確定し大穴の万車券となった。

当然、ファンは納得できず、500名ほどのファンが金網を破って走路に侵入した。主催側は次のレースの中止と当該レース車券の買戻しをするが、それでもファンは収まらずに、待機していた消防車をひっくり返しガソリンを抜き取り、木造のスタンドや払戻所に火を放った。

相次ぐ廃止

ここまでは、昔の鉄火場ではないことはない話(後年にはなるが、放火や投石、売上金が強奪された1968年の浦和競馬場での浦和事件や、1974年、同様の被害があった園田競馬場の園田事件など)だが、この鳴尾事件では売上金の強奪を阻止すべく警察官が放った威嚇射撃の流れ弾で1名が命を落としてしまう。

逮捕者も250名に上り、事態を重く見た政府は吉田茂首相を中心に競輪廃止の方向で閣議で了承を得るに至る。結果、2ヵ月間の開催自粛を決定し、その後運営の改善や選手の教育をすることを条件に継続することが決まり、なんとか廃止は免れた。

そんな鳴尾事件の影響で、議会が廃止を決定するなど政治的要素による廃止も相次ぎ(1955年豊中競輪場、1958年京都市営競輪場、1960年神戸競輪場、札幌競輪場、1961年明石競輪場、1962年大阪市営競輪場、福岡競輪場、1963年会津競輪場、1964年大阪住之江競輪場、1966年長崎競輪場)、最後には競輪のメッカと言われた後楽園競輪場までもが1972年に休止となった。

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著者プロフィール
このブログの運営と記事作成をしています。

Diomed(ダイオメド)といいます。1969年生まれのおっさんです。
競馬や馬券のこと、その他ギャンブルにまつわる話を思いつくままに書いています。

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