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第8回日本ダービー馬「クモハタ」

ダービー馬列伝
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第1回顕彰馬

第8回日本ダービー馬の「クモハタ」は、ダービー馬であることや競走馬として良好(決して優秀とまでは言えない)な成績を残したことではなく、優秀な種牡馬であることで著名な馬である。その類い稀なる功績を称え、日本史上初の三冠馬であるセントライト、10戦10勝(うちレコード7回)で日本ダービーを制するも直後に病死したトキノミノルらとともに、第1回の顕彰馬となっている。

種牡馬として成功したクモハタであるが、その競争成績は他の日本ダービー馬や顕彰馬と比較すると少し物足りない。しかし、それは競走能力の低さからくるものではなく、馬主をして「一度も満足な状態で出走できなかった。」と言わしめた身体の弱さからであり、逆に言えば後の種牡馬としての活躍をみるに「よくぞ、致命的な故障無しに生き続けてくれた。」と関係者には頭が下がる。

父トウルヌソルは、当時シアンモアと合わせて2大種牡馬と言われた大種牡馬であり、過去7回行われた日本ダービーでもトウルヌソル産駒が3回、シアンモア産駒が3回と拮抗していた。母の星旗はアメリカからの輸入牝馬で、第一仔のクレオパトラトマス(28戦16勝の名牝)が既に活躍をしていた。

そんな良血のクモハタは、血統的背景に加えて雄大な馬格も評判となり、3歳時に下総御料牧場で開催されたセリにおいて最高価格となる3万7600円で落札された。しかし、期待とはうらはらにクモハタには常に脚部不安がつきまとう。デビューを控えた4歳となって四肢全てが蹄叉腐乱となり、2か月以上の休養を余儀なくされる。

そして、本格的な調教を始めることができたのは、馬主である加藤雄策が最大の目標とする日本ダービー(東京優駿競走)の3週間前であった。ようやく日本ダービーの8日前に新馬でデビューするも、2着終わる。続いて再度新馬戦に出走して初勝利を収める。なんとダービーの3日前であった。

第8回日本ダービー

前年に日本競馬会が発表した「競馬施行計画」により競走体系が見直され、皐月賞、ダービー、菊花賞、桜花賞、オークスという五大クラシックが整備された。しかし、その第1回の皐月賞を制したロツクパークは故障により当日になって出走が取り消される。

代わりに1番人気となったのは、前年の日本ダービーを勝利したスゲヌマと同じプライオリーパークを父に持つエキスパーク。続いて、シヂリダケ、マルタケ、ハレルヤ、新種牡馬レイモンドの産駒リツチモンドなど人気するなか、クモハタは、最高価格馬でクレオパトラトマスの弟という良血でありながら8番人気という低評価であった。

この低評価は、日本ダービーの8日前にようやく初出走し、2日前にやっと初勝利したというデビューの遅れや、体調不良という情報によるものであった。実際に初勝利した2日前のレース後に痛めていた肩が悪化し、さらには飼い葉も食べなくなり、栄養剤を混ぜた投入を鼻から流し込むという最悪の状況であったという。

しかし、どうしても日本ダービーを勝ちたい馬主の加藤雄策は、セリで大金をはたいて落札したこともあり、出走に踏み切ることにした。馬の力もあるだろうが、こんな状態でも無事にレースを終え見事に勝利した関係者の努力は相当なものだったろう。引退した際の馬主である加藤の「この面倒な馬をどうにか競走馬として育ててくれた調教師、騎手、馬丁諸君に心から感謝している」という言葉にもそれは表れている。

レース当日は、朝からの小雨模様により重馬場で行われた。3番人気のマルタケが逃げ、1番人気のエキスパークは後方からの競馬となった。クモハタは4番手から状態の悪い馬場の内側のなか位置を下げ、距離を稼ぐ。3コーナーから抜け出しにかかったエキスパークが4コーナーで先頭に立つところ、クモハタはコースを外に取って追い込む。そして先頭に立っていたリツチモンドを追走、ゴール手前50mで交わしそのまま1馬身差でゴールした。

ダービー後と種牡馬としての活躍

このクモハタの持つ「デビュー9日目でのダービー制覇」は当時の最短記録であり、その後破られることは無かった。そして、今後破られることはまずないであろう。そんな偉大な記録を持つ同馬であるが、それで名を残したのではなく種牡馬として空前の成功を収め、日本の競馬史に名を刻んでいる。

第1回の顕彰馬として表彰されたのも、競走成績よりはこの種牡馬としての成績が考慮されたものであるし、今は無くなってしまったが「クモハタ記念」としてレース名にも名を残すことになったのも、種牡馬として当時大成功を収めたことによるものだ。

早くも2年目の産駒から、天皇賞(秋)を勝ち、通算25勝したカツフジを出し、戦後になってからは1952年から1957年まで6年連続のリーディングサイアーを獲得した。産駒は現在のG1にあたるレースを17勝しており、特に天皇賞の勝ち馬は7頭も輩出したが、これはサンデーサイレンスが2006年に破るまで史上最多の記録であった。

なお、当時はG1相当のレース数も少なく、天皇賞を勝った馬は二度と天皇賞に出走できないという時代。今なら、その産駒はもっと多くのG1を勝っていたことだろう。1953年には、内国産種牡馬の年間最多勝利記録となる157勝を挙げたが、これも2010年にキングカメハメハにより更新されるまで保持された偉大な記録である。

その1953年の夏に流行した馬伝染性貧血に罹患し、クモハタは同年の9月10日、家畜伝染病予防法に基づき殺処分されることになる。しかし、クモハタの残した偉大な血は残っており、現代の競走馬の血統表にも名前を見ることができる。例えば、2021年のアメリカG1ブリーダーズカップディスタフを制したマルシュロレーヌの7代母クインナルビーの父が、このクモハタである。

種牡馬としての成績や、姉のクレオパトラトマスが活躍したことからもクモハタの能力は疑いようはなく、脚元に不安がなければもっと活躍し、競走馬としての評価も高くなっていたかもしれない。馬伝染性貧血に罹患していなければ、さらに偉大な産駒が出ていたかもしれない。競馬に「かも」は禁物だろうが、クモハタを見る時にどうしてもそのことを思ってしまう。しかし、そうでなくともクモハタは偉大だった。

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Diomed(ダイオメド)といいます。1969年生まれのおっさんです。
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