当時の日本の状況
第9回の日本ダービーは、1940年6月2日に晴天のなか行われた。競馬人気、特にダービーの人気は年々高まっており、当日は東京競馬場に5万6507人という当時の入場記録を更新する賑わいとなった。当時の世情はというと、前年の1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻、2日後にはドイツによるイギリス・フランスへの宣戦布告により、世界は第二次世界大戦へ突入したところだった。
日本ダービーの三か月後には、ドイツ・イタリア・日本の三国軍事同盟(日独伊三国同盟)が締結され、翌年の1941年12月7日に真珠湾攻撃が行われた。まさに世界は戦争状態であったが、それでもダービーが行われていたという事実は感慨深い。
ちなみに本国イギリスのダービーはこの1940年から1945年までの6年間、ニューマーケット競馬場での代替開催となっている。なお、イギリスの1940年のダービーはなんと、数えて第161回目となるダービーだった。勝ち馬はポンレヴェックという、フランスノルマンディー地方で作られる、牛の乳で作られたウォッシュチーズの名前がついた馬(ポンレヴェックは、このチーズ発祥の村の名前)だった。
1940年(昭和15年)、日本は日中戦争真っ最中の戦時体制であり、戦時スローガンとして有名な「ぜいたくは敵だ!」が広まったのもこの頃。当初予定されていた1940年の東京オリンピックも開催権が返上されており、国民は苦しい生活を強いられていた。日本ダービーが人気となり最多入場を更新したのも、こういった国民の抑圧された感情の捌け口として求められたものだったのかもしれない。
イエリユウ
表記は「イエリユウ」だが、おそらく読みは「イエリュウ」で漢字なら「家竜」か「家流」か、はたまた「癒え竜」というところだろうか。この「イエリユウ」となっているのは、戦前のカタカタ表記が全て大文字となっていたことによるもので、第4回日本ダービーの勝ち馬「ガヴアナー」の読みが「ガヴァナー」であるのもこれと同じである。
イエリユウは、父トウルヌソル、母「山妙」の間に生まれた名門下総御料牧場の生産馬である。父トウルヌソルは昭和初期の大種牡馬で、母「山妙」はイエリユウが生まれる2年前にタエヤマを生んでいる。タエヤマは第7回の日本ダービーで1番人気ながら惜しくもスゲヌマの2着に敗れ、第1回の京都農林省賞典四歳呼馬(今の菊花賞)でも3着(1番人気)となった強い馬であった。
そんな全兄に日本ダービー2着馬のいる良血のイエリユウであったが、それまでに1勝しかしていないこともあり、日本ダービーでは4番人気であった。1番人気は、プライオリーパークの産駒で横浜農林省賞典四歳呼馬(今の皐月賞)の勝ち馬ウアルドマイン。イエリユウの全兄タエヤマを日本ダービーで破ったスゲヌマの父も、プライオリーパークの産駒だった。
続く2番人気はダイオライトの日本での初年度産駒で、セリで4万円の高値で落札されたテツザクラ。テツザクラはこの日本ダービーで4着に敗れるが、後に京都農林省賞典四歳呼馬(今の菊花賞)で雪辱を果たす。種牡馬ダイオライトは翌年三冠馬セントライトを輩出し、名種牡馬への道を歩むことになる。
第9回日本ダービー
重馬場であったが、天気は日本ダービーにふさわしい快晴であった。今では考えられない、24頭立てという多さでレースは行われた。なお、日本ダービーの最多頭数は1961年と1962年の32頭である。その後、危険防止のため出走制限頭数は減っていき、1992年に18頭となって今に至っている。
12番人気のイサムトロフヰが先手を取るも、向こう正面手前から先頭は5番人気のルーネラへと変わる。3コーナーあたりでイエリユウが5番手まで押し上げ、直線で仕掛けると9番人気のミナミと13番人気のブームという人気薄の2頭がそれに併せて上がっていく。3頭のうちイエリユウとミナミが抜け出し、互角の脚色のままゴールした。
僅かにハナ差でイエリユウが1着、ミナミが2着となった。3着には第2回日本ダービーの勝ち馬カブトヤマの産駒であるブームが入線したが、これは当時劣勢だった内国産種牡馬としては大健闘の3着だった。なお、カブトヤマは後に第14回日本ダービー馬のマツミドリを輩出し、史上初の親子制覇を成し遂げる。
ダービーを制覇したイエリユウは京都農林省賞典四歳呼馬(今の菊花賞)で4着となった後、5戦3勝2着2回と好成績を上げ、さらに小倉で2連勝しこれからという時、急性脳膜炎を発症しそのまま死亡する。さらに、主戦騎手でありダービーでも手綱を引いた末吉清騎手も、イエリユウの後を追う様に亡くなったという。

