名前の由来は「ボストン市民」
第20回の日本ダービーを勝った馬の名前は「ボストニアン」というが、1953年(昭和28年)という頃にしては珍しい洋風な名前である。それまでに19回行われた日本ダービーで、そのような洋風な名前は第3回フレーモア、第4回ガヴァナー、第10回セントライトの3頭だけである。
令和の今や「ヴ」とか「ヴェ」が混ざった聞いたこと無いような外国語だらけになっている競走馬だが、当時は過去3年の日本ダービー馬をみても「クモノハナ、トキノミノル、クリノハナ」などという漢字でも書けそうな名前がほとんどである。なお、有名な話だがトキノミノルは改名しており、初戦はパーフェクトという名前だった。
「ボストニアン」と聞くとゲーマーだった私などは、どうしてもナムコの名作「ボスコニアン」を思い出す。1981年にアーケードゲームとして発売されたシューティングゲームで当時では珍しい「ブラストオフ!」などと喋るゲームとして有名だった。
この「ボスコニアン」というゲームの名前は、アニメ化もされたSF小説「レンズマン」に登場する「宇宙海賊ボスコーン」が由来という。一方「ボストニアン」は何なのかというと、アメリカ・マサチューセッツ州の州都であり最大の都市でもあるボストン、そこに住むボストン市民の愛称「Bostonian」のことだ。
何でそんな名前をつけたのかというと、公式には馬主は岡本治一とされているが、本当の馬主はボストン生まれのアメリカ人だからということらしい。いわゆる名義貸しということになるが、日本ダービー当時の成績表に堂々とその旨が書かれていたという。
2冠を達成する
父セフトは、1947年~1951年まで5年連続でリーディングサイアーとなった名種牡馬である。産駒は牝馬に活躍馬が多いところ、牡馬の代表産駒は第18回日本ダービー馬にして無敗の2冠馬トキノミノルと、種牡馬として最後の世代となるこのボストニアンがそれに続く。
デビューから順調に勝ちを重ねたボストニアンは、7番人気という低評価だったが関西馬初となる皐月賞での勝利を収め、続くダービートライアルNHK杯をも制する。なお、NHK杯(当時の名前はNHK盃)はこの年に創設されたレースであり、ボストニアンはその初代王者ということになる。
NHK杯はその後1996年からはNHKマイル(G1)へと姿を変えているが、それまではダービートライアルとして重要な位置を占める名物レースだった。この年(1953年)のテレビ放送開始に合わせ、NHKは日本ダービーの中継を計画したが、その際にトライアルレースとしてNHKの冠名を付したレースの設置を目論(もくろ)んだ。
これは日本ダービーの出走馬の成績がメディアで取り上げられた際に、NHKの名の入ったレース名が呼ばれることを狙ったものであった。そして競馬会も、NHKから優勝カップを用意することを約束され、トライアルレースを設置することで日本ダービーへの注目が高まると踏んだことで実現したものである。
レースは史上最多の33頭が出走(当初35頭だったが、当日2頭取り消した。)したが、うち3頭が落馬するという大混戦となった。1番人気に押されていたボストニアンは、追い込んできたダイサンホウシユウに2馬身の差をつけ優勝し二冠を達成する。
日本ダービー後のボストニアン
日本ダービーを勝ったボストニアンは、セントライト以来12年ぶりとなるクラシック三冠に挑戦する。なお、日本ダービーでボストニアンに騎乗した蛯名武五郎騎手は、2歳下になる保田隆芳と共に関東の二大騎手として長く活躍した大騎手だが、この日本ダービーを1番人気で勝利した喜びは強く男泣きに泣いたと言われている。
日本ダービー後の休養から復帰したボストニアンは3連勝し、都合8連勝して三冠最後のレース菊花賞に挑む。復帰後の3連勝には皐月賞2着馬のハクリヨウ、日本ダービー2着馬のダイサンホウシユウに勝利したレースも含まれており、三冠は間違いなしと言われていた。
しかし、本番の菊花賞では皐月賞2着のハクリヨウに3馬身半差をつけられて敗れてしまう。翌年の天皇賞でもこのハクリヨウに6馬身差で負けていることから、距離が長かったことも一因であろうが、二冠を達成した蛯名武五郎騎手から関西の佐藤勇騎手に乗り替わっていること(休養後の復帰戦から)も原因かもしれない。
佐藤勇騎手も、今でいうG1級レースである八大競走を3勝、中央競馬史上初めての通算500勝を記録した関西の名騎手であるが、馬が関西に戻ったからといって二冠でともに騎乗した関東の名騎手を降ろすというのも今では考えられない。
その後はそこそこの活躍はみせるも、天皇賞でハクリヨウに負けるなど大きな活躍はできなかった。トキノミノルが早逝したこともあり、セフトの後継種牡馬として期待されたが、産駒は全く走らなかった。一方のライバルだったハクリヨウは皐月賞馬ヤマノオー、桜花賞馬シーエースを輩出するなど内国産種牡馬暗黒時代到来前の最後の輝きといわれるほど成功した。