最多全勝記録を持つ最強馬
日本の競馬における「最強馬」なかでも「最強牝馬」と言った場合、必ず名前が挙がるのがこの第12回日本ダービーを制した「クリフジ」である。その戦歴は、日本における(中央競馬のサラブレッド)最多全勝記録である11戦11勝という無敗の名馬である。
ほかに無敗で引退した馬と言えば、10戦10勝で日本ダービーを勝利するも、日本ダービー制覇後わずか17日で亡くなった幻の馬「トキノミノル」や、持込馬のため日本ダービーに出ることが出来ず、騎手をして「大外でいい、賞金もいらない、だから一緒に走らせてくれ」と言わしめた「マルゼンスキー」などがいる。
この2頭も日本最強馬としてよく名前が挙げられるが、この「クリフジ」こそが最強と言う人が多い。シンボリルドルフを管理していた野平祐二調教師も迷わず最強馬として「クリフジ」の名を挙げたというし、サクラバクシンオーやサクラローレルといった数多くの名馬を育て見てきた境勝太郎調教師も、「クリフジ」を最強馬として挙げている。
最強牝馬という括りでは、G1を9勝(歴代最高記録)したアーモンドアイや、宝塚記念・コックスプレート・有馬記念を3連勝したリスグラシュー、ほかにもブエナビスタやダイワスカーレットなどのように牡馬とも対等に戦ってきた強い馬たちや、このクリフジ以来64年ぶりに日本ダービーを勝った牝馬ウオッカなどがいるが、「クリフジ」は少し別物といった感がある。
11戦全勝という成績もだが、その内容も凄いもので、変則3冠と言われる3レースでの着差は、東京優駿(日本ダービー)競走が6馬身、阪神優駿牝馬(10馬身)、京都農商省賞典四歳呼馬(大差。後の菊花賞となるレースだが、これが同レース唯一の大差勝利記録)というもので、特に日本ダービーは大きな出遅れてがあっての6馬身差勝利という強さ。
11勝のうち、実に7戦ものレースで10馬身以上の差をつけて勝っている。大きく出遅れたものの6馬身をつけて完勝した日本ダービーのレース後、クリフジに騎乗した前田長吉騎手は「最後の直線では他馬の蹄音が聞こえなかったので何かあったのではないか?と気になって後ろを振り返った。」と言っていたというから、いかにこの世代で突出していたのかが分かる。
トシシロと前田長吉
ほとんどのレースで完勝していた「クリフジ」に対し、最も僅差の2着になったのはデビュー戦において1馬身差で敗れたトシシロである。同馬は28戦16勝、日本ダービーでも1番人気(9着)になり、帝室大賞典(今の天皇賞)にも勝利した名牝クレオパトラトマスを母に持つ良血馬で、セリ市ではクリフジを上回る6万円の値で落札された期待の馬であった。
トシシロの競走成績の詳細は不明だが、通算3勝にとどまり期待ほどの活躍はできなかったようだ。しかし、種牡馬として二冠牝馬ヤマイチ、桜花賞馬ホウシユウクイン、宝塚記念馬ホマレーヒロを輩出する活躍を見せた。一方のクリフジもオークスを親子2代で制覇したヤマイチなど、3頭の重賞勝利馬を産んでいる。
日本ダービーを含めクリフジの11レースの全てで騎乗した前田長吉騎手は、1942年5月10日にデビューしたばかりの当時まだ見習騎手であった。デビュー戦における楽勝ゴールに始まり、その年は12レースに騎乗、1着5回、2着2回という優秀な成績を収めている。
その翌年にクリフジに乗って日本ダービーを制するが、この時前田長吉騎手は20歳3か月であり、これは今でも破られていない日本ダービーにおける最年少優勝記録である。当初は兄弟子が騎乗する予定であったが、その兄弟子は日本ダービーで別のお手馬(ミヨノセンリ、6着)に乗る事となったことから、クリフジに前田が乗ることになったという。
前田はクリフジで変則3冠(ダービー、オークス、菊花賞)を制し、翌1944年にはヤマイワイで中山四歳牝馬特別(今の桜花賞)を優勝、東京優駿競走(日本ダービー)でもシゲハヤに騎乗してカイソウの2着になっている。これほどの騎手であるが、歴史に名を残すような大騎手にはなれなかった。
それは成績によるものではなく、「戦争」によるものであった。クリフジで日本ダービーを勝った翌1944年の10月14日に召集命令を受け入隊。満州に出征し旧ソ連の捕虜となってしまう。シベリアのブルトイ収容所で強制労働をさせられるなか、病死して現地で埋葬されたという。最後まで正規騎手としてレースに騎乗することはできなかった。どれほどの大騎手になっていただろうか、あまりに惜しい。
クリフジの日本ダービー
第12回の日本ダービーは、1943年の6月6日東京競馬場で晴天のなか良馬場で行われた。当時最多の25頭が出走し、2万3200人を収容する東京競馬場のスタンドは観客で埋め尽くされていたと言う。当時、日本は第二次大戦の真っ最中であり、前日には連合艦隊司令長官である山本五十六の国葬が行われている。
1番人気のクリフジの鞍上は、若干20歳の前田長吉。当時の馬券は20円単位で売られていたところ、クリフジの配当は53円50銭というからオッズにすると2.7倍となるが、その頃の大卒初任給が60円から70円だったというからかなりの高額である。
当時はまだスタートゲートはなくバリヤー方式だったが、10番のクリフジは9番の馬と11番の馬との間にうまく入ることができず、ちょうど横を向いた時にスタートがきられてしまい「一回転して出て行った」と言われるほどの出遅れを喫してしまう。これは新人(見習い)騎手の前田が、周りのベテラン騎手に遠慮してしまったことも一因だったと言われている。
しかし、前田は焦ることなく落ち着いて後方をキープし、「前半は抑えて行け」という調教師の指示を守った。尾形景造調教師の前田の騎乗姿勢に対する「真面目にきちんと指示通りに動いてくれた」という評のとおりだが、それを日本ダービーの1番人気馬に乗っている場面で、それも20歳の新人ができたというのは素晴らしい。
先頭に立ったのは作家の吉川英治が所有する3番トキノココロ。2番テツマサキと12番ミスセフトがそれに続く。向こう正面でのクリフジは、まだ先頭から20馬身ほど離れた後方のまま。3コーナーあたりからペースが速くなったところでクリフジは中団にまで押し上げ、ラスト300mのところで前が開いたところへ突っ込んでいく。
そこから凄まじい脚を使い、あっという間に先頭へ躍り出る。そして独走状態となって後続を引き離し6馬身差をつけたところがゴールだった。勝ち時計の2分31秒4は、前年のミナミノホマレの記録を1秒6も更新するレコードだった。3戦3勝でダービーを制したのちは、負けることなくオークス、菊花賞に勝ち、引退までの11戦全てにおいて完全なる勝利をあげた。紛うことなき名馬だった。

