1着賞金は30万円
第15回となる日本ダービーは、1948年6月6日東京競馬場で行われた。1着本賞金は30万円であったが、これは戦後そして競馬再開後初めての日本ダービーだった前回、1947年の第14回日本ダービー(勝ち馬:マツミドリ)の1着本賞金10万と比較して実に3倍となる高い賞金であった。
なお、再開前のカイソウが勝った戦争真っ只中、1944年の第13回日本ダービーの本賞金は15,000円であった。そして戦争による2年間の中止を経て再開された後は、10万円、30万円、60万円と毎年賞金は上がっていき、トキノミノルが勝った1951年の第18回日本ダービーでは大台の100万円となっている。
しかし、戦後1945年から1951年にかけて日本は史上最大のハイパーインフレ状態になっており、この期間中に卸売物価は約100倍に上昇しているから、数字は増えているとはいえ実質的には変わっていないのかもしれない。それでも戦時中の賞金は債券(のちに紙くずとなる)で支払われていたという話もあり、それよりは随分マシにはなっていたはずだ。
2026年現在、日本ダービーの1着本賞金は3億円であるが、意外にもこれは日本競馬の最高賞金額ではない。最高賞金額は有馬記念とジャパンカップの5億円で、日本ダービーの3億円はそれに次ぐ賞金額であり、宝塚記念、大阪杯、天皇賞(春・秋とも)もそれと同じ3億円となっている。
第15回日本ダービー馬ミハルオー
ミハルオーは1945年4月30日、北海道の富岡牧場で産まれた。父はマンノウォー産駒の持込馬で種牡馬となった月友(つきとも)で、月友は既に産駒のカイソウが第13回日本ダービーを勝っている。月友は他にもミツマサ(オークス)やツキカワ(桜花賞)、オートキツ(オークス、1955年の年度代表馬)などを輩出した一流種牡馬であった。
ミハルオーは、1947年8月17日函館競馬場の芝1000mのデビュー戦を7馬身差で楽勝したのを皮切りに、9月21日までの1か月の間で4連勝する。うち2レースはレコードであり、4戦中2戦はダートでのレースであった。休養を挟んで翌年3月の初戦もクビ差で勝利した後さらに連勝し、通算7戦7勝で皐月賞を迎える。
その皐月賞では1番人気に推されるも、ヒデヒカリの3着に敗れてしまう。その後1戦してきっちり勝利を収め、日本ダービーで雪辱を果たすべく出走すると、皐月賞と同じように1番人気に支持される。期待に応えたいところだが、ミハルオーはゲートで暴れてしまい、大外枠からの発走となる。なお、レースの出走頭数は23頭で、その大外枠からという大きなハンデを背負うことになった。
それでもミハルオーは2馬身差をつけて快勝する。これでダービーを含む10戦9勝となり、成績だけを見るととんでもない名馬である。気性の悪さもあって、終戦直後の「オルフェーブル」といったところか。なお、ここまで全てのレースで新屋幸吉騎手が手綱を取っている。
ミハルオーと新屋幸吉騎手のその後
日本ダービーを制したミハルオーは3か月ほどの休養に入り、9月の札幌でのダート戦で復帰するも4着に終わり、次戦の札幌記念(ダート2000m、現行の札幌記念とは関連がない。)でも10着と大敗する。ここでまた2か月ほどの休養後、今度は芝のレースに出走する。
その東京競馬場での芝の2000m戦でも13着、6着と全くいいところ無く敗れる。体調なのか、気性の問題なのか、それにしても負けすぎだろう。これはもう以前の力は失われてしまっていて、二度と強いミハルオーの雄姿を見ることはできないのではないかと思われた。
翌1949年の4月、ミハルオーは鞍上に土門健司騎手を迎えて京都競馬場の芝1700の特ハンに出走する。ここで3着と復調を見せ天皇賞(春)に挑むと、ニユーフオードに2馬身半差をつけて優勝し鮮やかな復活を遂げる。その後は鞍上を新屋幸吉騎手に戻して芝の一般戦を3連勝して引退となった。
種牡馬としては成功せず、1956年からは競走馬衛生保険研究のため馬事公苑馬衛生研究室で供用されることになり、同年12月20日、病気のため死亡したまた、ダービージョッキーとなった新屋幸吉騎手だが、こちらは1952年から地方競馬に移籍し、1955年に落馬事故で亡くなっている。
