第14回日本ダービー
戦争により中止となっていた競馬だが、1946年10月17日に東京競馬場と京都競馬場において、実に3年振りとなる戦後初の競馬が開催された。同じくして1945年、1946年と2年に亘って中止となった日本ダービーであったが、こちらも1947年6月8日に東京競馬場においてレースが行われた。
東京競馬場には4万2000人もの観客集まったというから、ファンがどれだけ待ち望んでいたかが良く分かる。日本ダービーで馬券が発売されたのも4年振りだった。日本はまだ敗戦間もない時期であってまだまだ復興もままならないところ、こういった気分を高揚できる行事も限られていたことだろう。
単勝1番人気はアヤニシキ。クラシック第一弾の皐月賞を圧勝したトキツカゼが2番人気で、そこから差のない3番人気が1933年の第2回日本ダービー馬カブトヤマを父に持つマツミドリであった。レースは第4コーナーで先頭に立ったマツミドリをトキツカゼが追うという展開になり、ゴールまで2頭の凄まじい叩き合いだったという。
最期はマツミドリがアタマ差トキツカゼを離して1着でゴールし、日本ダービーの栄冠を勝ち取り、日本競馬史上初めての親子2代制覇となった。今では当たり前のように言われている「ダービー馬はダービー馬から」という言葉は、この快挙を持って生まれた言葉である。
ライバルの名牝「トキツカゼ」
2着に終わったトキツカゼだが、管理する大久保房松調教師は、勝ったマツミドリの父カブトヤマが日本ダービーを勝った時の勝利騎手であり、「てっきり勝ったものと思ったが頭だけ負けていた。マツミドリはカブトヤマの仔で、カブトヤマは良馬場は走るから、注意しろよとは言っていた。私が乗ってダービーに勝ったカブトヤマの仔に負けたのだから本望ともいえるが、そのときは口惜しかった。」と後に語っている。
日本ダービーではマツミドリの2着となったトキツカゼだが、クラシック第一弾の皐月賞では2着マツミドリに6馬身をつけて勝っている。日本ダービーで負けた後は菊花賞ではなく優駿牝馬(オークス)を選び、2着ネオンに対して貫禄の大差勝ちをしている。
面白いのは、親子2代制覇の偉業を称え創設された「カブトヤマ記念」に、マツミドリとトキツカゼの両馬が合わせて出走し、トキツカゼが見事に優勝したのだが、レースの創設に係わったマツミドリが6着に敗れ、父の名前が冠されたレースで力を見せることができなかったこと。
トキツカゼは繁殖牝馬としても優秀で、1955年第22回日本ダービーのオートキツ、天皇賞(春)と有馬記念のオンワードゼアという2頭の年度代表馬を輩出している。そのことから、競走成績と繁殖牝馬としての成績は最強馬にも挙げられる「名牝クリフジ」に匹敵しており、「名牝中の名牝」と言われるなど競馬関係者からの評価は高い。
マツミドリのそれから
そんな名牝中の名牝といわれるトキツカゼを、日本ダービーで破ったマツミドリも強い馬だった。マツミドリは日本ダービー後は農林省賞典や京都記念に優勝し、通算成績を23戦9勝として引退し種牡馬となった。「ダービー馬はダービー馬から」の言葉どおり、今度はマツミドリが日本ダービーを勝つ仔を出したいところ。
しかし、1953年北海道で流行した馬伝染性貧血に罹患してしまい、防疫上の観点から殺処分されることとなってしまう。種牡馬としては、供用期間が短かったこともあって、皐月賞3着、NHK杯3着のダイイチヒガシヤマとアングロアラブで種牡馬となったダイゴを出すに留まった。
ちなみに、2022年の第89回日本ダービーを勝ち、ほかに有馬記念、ジャパンCなどを勝ち通算G1を5勝した名馬ドウデュースが、2023年の京都記念を勝利したが、これはなんとマツミドリ以来75年ぶりとなるダービー馬による京都記念制覇だった。
史上初の親子2代ダービー制覇という記録意以外では地味な日本ダービー馬のマツミドリであるが、こういう時に名前が出てくると関係者はさぞ嬉しいことであろう。
