初の海外重賞制覇
ハクチカラは1956年に行われた第23回日本ダービーを勝ち、翌年には天皇賞・秋と有馬記念を勝つなど、それだけでも超のつく名馬であるが、やはりハクチカラと言えば「日本調教馬として初めて海外の重賞を制覇した」という偉業を達成したことが、より名馬としてのその名声を高めているという事実には間違いがないだろう。
今や海外重賞どころか海外のG1を当たり前のように勝ち、ジャスタウェイが2014年度ワールド・ベスト・レースホース・ランキングの単独1位となるなど、日本競馬(日本馬の力)が世界的にもトップクラスであることは当たり前であるが、ハクチカラが活躍した当時、海外馬と日本馬では大人と子供ほどの差があった。
ハクチカラがワシントンバースデーハンデキャップにおいて初の海外重賞を勝ったのは1959年だが、日本馬が幾度と無く挑戦したワシントン国際(国際招待競走)の1962年から1980年の成績を見てみると、いかに日本馬が弱かったか、またハクチカラの海外重賞制覇がいかに偉業だったかが分かる。
1962年 タカマガハラ 10着/13頭 32馬身(着差)
1964年 リュウフォーレル 8着/8頭 30馬身1/2
1967年 スピードシンボリ 5着/9頭 8馬身1/4
1968年 タケシバオー 8着/8頭 24馬身1/2
1969年 タケシバオー 7着/7頭 35馬身
1972年 メジロムサシ 7着/7頭 43馬身
1975年 ツキサムホマレ 9着/9頭 30馬身3/4
1976年 フジノパーシア 6着/8頭 23馬身
1980年 ハシクランツ 8着/8頭 44馬身
(「怪物」「野武士」と言われたオールラウンダーの名馬、タケシバオーでも全く歯が立たない。)
続く1981年の第1回ジャパンカップは、アメリカの牝馬メアジードーツが優勝した。前年の有馬記念優勝馬で年度代表馬であるホウヨウボーイをはじめとする日本の一流馬が、日本馬のホームであるにもかかわらず海外の二流牝馬に為す術なく完敗し、しかも日本レコードを0.5秒も短縮されるという体たらくであった。
この結果は「(日本馬は)永遠に勝てないのではないか」と思わせるほどの衝撃であったが、一方で「いつか世界に追いつき追い越す」という、競馬関係者の思いも強くさせるものでもあった。その思いが成就されるのはフジヤマケンザンが香港国際Cを勝利する1995年になるが、これはハクチカラの海外重賞制覇からなんと36年もの後のことであった。
デビューから国内での活躍まで
1953年北海道浦河町のヤシマ牧場でハクチカラは産まれた。幼名はヤシマコルテスといい幼駒の頃から体格などから期待されており、場主の小林庄平は本馬を売らないつもりだったが、馬主となった西博の強い要望と尾形藤吉調教師の口添えもあり売却されることになった。売却額は当時の最高額となる300万円であった。
1955年10月1日中山競馬場でデビューし、2着に4馬身差を付けて勝利する。同じ中山競馬場で勝ち続け、5戦5勝で3歳王者決定戦である朝日杯3歳ステークスを迎える。圧倒的な1番人気に押されるが、終生のライバルとなるキタノオーに競り負け、3/4馬身差の2着となり初黒星をつける。
休養の後オープン競走で2着となり、皐月賞を迎える。キタノオーに次ぐ2番人気だったが、12着と大敗する。なお、1着は穴馬ヘキラク、キタノオーは2着だった。担当厩務員がハクチカラの慢性的な下痢を改善しようと、人間用の整腸剤を投与していたことが敗因のひとつと言われている。厩務員を交代・体調の立て直しを図り、さらに鞍上を八木沢勝美から保田隆芳へ乗り換えてダービーへ挑むこととなった。
保田隆芳騎乗でオープン戦を勝利し、本番の日本ダービーへと向かう。ハクチカラはキタノオー、ヘキラクに次ぐ3番人気であった。そのヘキラクとキタノオーが外枠から内側に斜行、あおりを受けたエンメイ、トサタケヒロの2頭が落馬という波乱のスタートのなか、ハクチカラは好スタートから5番手を進み最後の直線でキタノオー(2着)を交わして先頭でゴールする。
クラシック最後となる菊花賞はキタノオーが制し、ハクチカラは5着に敗れる。翌年もハクチカラは走り続け目黒記念・春や毎日王冠を勝つ。そして秋からは最強馬となり目黒記念・秋でキタノオー(この後休養に入る)を破り、その後天皇賞・秋と有馬記念を連勝する。天皇賞・秋の単勝支持率は今でもJRA史上最高となる85.9%で、有馬記念でも同レース最高となる単勝支持率76.1%を記録している。
有馬記念の単勝支持率ランキング
1位 ハクチカラ 76.1%(1957年1着)
2位 ディープインパクト 70.1%(2006年1着)
3位 シンザン 69.1%(1965年1着)
4位 シンボリルドルフ 65.2%(1985年1着)
5位 ディープインパクト 62.6%(2005年2着)
(ディープインパクト、シンザン、シンボリルドルフを超えるとんでもない数字である。)
(参考)優勝馬の最低支持率ランキング
1位 ダイユウサク 0.6% 14番人気(1991年)
2位 マツリダゴッホ 1.5% 9番人気(2007年)
3位 メジロパーマー 1.6% 15番人気(1992年)
4位 ストロングエイト 1.8% 10番人気(1973年)
5位 メジロデュレン 3.1% 10番人気(1987年)
アメリカ遠征
海外競馬との差を痛感し少しでも追いつきたい中央競馬会は、1957年に発表された「中央競馬運営方策要綱」の中で、競馬の国際化を打ち出す。その一環として呈示された「国産馬の国外遠征」として、年度代表馬であり日本では無敵となったハクチカラが選ばれ、翌1958年に海外遠征が実現する。
中央競馬会の補助が300万円と招待費が180万円支給されるとはいえ、渡米用の飛行機チャーターに約570万円、滞在費が少なく見積もって500万円として、馬主である西博の負担は500万円以上。当時の大学卒の初任給が約1万円、日本ダービー1着賞金が200万円だったことから考えても大きな出費である。
輸送も命がけだった。ハクチカラを入れた木箱をクレーンで吊り上げて搭乗口に接続し、馬が歩いてくれるのを待つ。当日は強風で台が揺れ、いつ落ちてもおかしくない状態だがハクチカラは歩いてくれず、結局乗り込むまでに2時間以上かかったという。またパイロットはハクチカラが機内で暴れたり騒いだりして飛行が危険と判断した場合に備えて銃を携行しており、銃殺する権限が与えられていた。
アメリカでは17戦して1勝しかできなかったが、その1勝こそが海外における日本馬の初重賞制覇となるワシントンバースデーハンデキャップでの勝利だった。15番人気と全く人気はなかった。なんと、1番人気は当時の世界賞金記録を持っていた世界的名馬ラウンドテーブルだった。ハクチカラとは10kg以上のハンデ差に加え、怪我があったとしても凄いことである。
なお、ワシントンバースデーハンデキャップの1着賞金が5万ドル(当時は1ドル=360円なので、日本円で1800万円)もあり、ハクチカラが日本で受けた全賞金より多かった。鞍上の保田隆芳は、この海外遠征でモンキー乘りを取得し、その後主流の騎乗法となり広まった。ハクチカラの遠征とこの勝利が無ければ、日本競馬はあと10年20年は遅れていただろう。先人たち、そしてハクチカラの挑戦に感謝しなくてはいけない。