今や死語となった持込馬(もちこみば)
1957年(昭和32年)に行われた第24回日本ダービーを制したのは、父ボワルセル(Bois Roussel)、母イザベリーンを両親に持つ持込馬(もちこみば)ヒカルメイジだった。持込馬とは、日本国内で産まれているが、母馬が既に海外で受胎していたという場合の仔馬や、満1歳になるまでに母仔一緒に輸入された仔馬のことである。
このヒカルメイジの母イザベリーンも、繁殖牝馬としてイギリスから輸入された時点で既にボアルセルの仔を受胎しており、日本で産まれたヒカルメイジは持込馬となるが、当時は持込馬も他の内国産馬(日本で産まれた馬)と同じ扱いであり何の制限も無かった。
その後1971年から持込馬は外国産馬と同じ扱いとなり、有馬記念を除く八大競争(クラシックレースや天皇賞)への出走が不可能となった。これは同年の貿易自由化に伴う国内生産者保護の一環として施行されたものであるが、その後1984年には元どおり持込馬は内国産馬と同じ扱いに戻っている。
ヒカルメイジが日本ダービー馬になれたのも、この制限が無かった時代であったからであるが、他にも1971年の規制前でいうと1965年の皐月賞を勝ったチトセオー(1965年皐月賞)や、1973年の天皇賞・春を勝ったタイテエムなどがいる。なお、タイテエムは規制後の1973年に天皇賞を勝っているが、規制内容が「1971年6月30以降に輸入された牝馬から生まれた馬」となっていたため、ギリギリ間に合った。
また1984年の規制解除後でいうと、ビワハヤヒデ、フサイチコンコルド、キングカメハメハなどがこれにあたる。問題は規制中の持込馬だが、これは「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。」という名言を産んだ「マルゼンスキー」の話が有名である。
※ マルゼンスキー イギリス三冠馬のニジンスキーを父に持つ持込馬。朝日杯3歳Sを大差勝ちするなど8戦8勝、レースでつけた2着馬との差は8戦で61馬身という快速馬。持込馬のため日本ダービーに出走できず、同馬に騎乗する中野渡(なかのわたり)清一は「日本ダービーに出させてほしい。枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しない。賞金もいらない。」と話したという。
日本ダービーを制覇
父ボワルセルはイギリスダービーを勝った名馬で、種牡馬としてもリーディングサイヤ―(2位とも言われる)になるなど優秀で、生まれた仔馬(ヒカルメイジ)も期待されていたが、いかにも見栄えが悪かった。しかし、藤本冨良調教師は見るべきところもあるとして購入し、その後メイヂヒカリ(菊花賞、天皇賞、有馬記念を勝った名馬)の馬主として知られた新田新作の所有馬となった。
1956年9月29日に東京競馬場の芝1200でデビューするも、7着と大敗する。続く未勝利戦でなんとか勝利するも、以後はオープン戦で4着、4着と勝てず、さらには条件戦でも2着、2着と不甲斐ない成績が続く。脚部不安があったとはいえ、ここまでは並みの条件馬といった程度の成績である。
次走は、明け4歳(現3歳)2戦目となる4歳特別だったが、このレースでボストンに3馬身半の差をつけ2勝目を挙げると快進撃が始まる。続くオープン戦で朝日杯3歳ステークスの2着馬ラプソデーに完勝すると、次のスプリングSで遂に重賞初勝利を収める。皐月賞に向かう前のオープン戦では2着馬に4馬身の差をつけレコードタイムで勝利し、4連勝で皐月賞に挑んだ。
皐月賞当日は重馬場となったが、それでもヒカルメイジは単勝支持率53%という抜けた1番人気に支持される。しかし、「重の鬼」言われたカズヨシに惜しくも1馬身半及ばず2着に敗れてしまう。次走NHK盃は3馬身差で快勝し、日本ダービーを迎える。
本番でヒカルメイジは、皐月賞馬カズヨシ、8戦8勝の二冠牝馬ミスオンワードたちライバルを抑え1番人気となった。道中は中団に控えたヒカルメイジだが、徐々に進出し直線で逃げ粘るカズヨシを一気に差し切り3馬身半の差をつけてゴールした。トキノミノルが記録したレースレコードより0.1秒速い、2分31秒0という好タイムだった。
バッドルッキング
連勝が始まった4歳特別のレースからは皐月賞で2着、日本ダービーでの優勝を含む7戦6勝という抜群の成績を残したヒカルメイジは、最後の一冠菊花賞でも主役となることは間違いなかったが、日本ダービーの後、右前脚に屈腱炎を発症していることが判明し、長期休養を余儀なくされる。
翌年3月に復帰しオープン戦で61kgという酷量にかかわらず勝利し、天皇賞・春を控え西下して挑んだオープン戦でも同斤量で快勝する。しかし本番前に屈腱炎が再発、大事を取って引退する事となった。無事であれば相当な成績を残したことであろう。
引退後は種牡馬となり青森県繋養種牡馬の代表として活躍し、グレートヨルカ(菊花賞)、アサホコ(天皇賞・春)など10頭の重賞優勝馬を輩出した。外国産種牡馬が圧倒的であった当時、内国産種牡馬として1963年の8位、1954年の7位と2度もベスト10入りを果たしている。
ヒカルメイジは、幼い頃より「熊みたいに不細工な奴」などと言われ、競走馬となってからも、そのずんぐりむっくりとした見映えのしない馬体から「ネズミみたいな馬だ」などと言われていた。一方、同厩で同一馬主のメイヂヒカリはグッドルッキングホースで知られた美しい馬であり、厩舎を訪れる人は皆メイヂヒカリのところに集まり、ヒカルメイジには寄り付かなかったという。
それでも藤本調教師は「いまにこっちの方にも人が来るようになりますよ」と言い、実際にヒカルメイジは勝ち星を重ね遂には日本ダービーを制したが、馬主の新田新作はその姿を見ることなく世を去っている。また2年後の日本ダービーでは弟のコマツヒカリ(父トサミドリ)が優勝し、史上2組目の兄弟制覇を成し遂げている。