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第18回日本ダービー馬「トキノミノル」

ダービー馬列伝
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パーフェクトからトキノミノルへ

第18回の日本ダービーを優勝したトキノミノルは、父セフト、母第弐タイランツクヰーンという血統のもと、1948年5月2日に本桐牧場で生まれた。父のセフトは、日本競馬が戦争による中止から再開された翌年の1947年から1951年まで、5年連続リーディングサイヤ―となっている一流の種牡馬である。

しかし、トキノミノルの兄弟となる母第弐タイランツクヰーンの産駒の成績は芳しくなく、父セフトはトップ種牡馬とはいえ短距離向きの種牡馬と見られており、当時は長距離での成績に重きが置かれていたこともあって、トキノミノルにはすぐに買い手がつかなかった。

なお、幼名(血統名)は「パーフェクト」というが、馬主である永田雅一はさしたる期待をしていなかったことから競走年齢になっても名前を付けておらず、止む無く「パーフェクト」という幼名(血統名)のまま競争登録をしており、「トキノミノル」となったのは2戦目以降であった。

パーフェクトと幼名をつけたその馬に、全く期待していなかった馬主の永田雅一は、初戦時には馬を買ったことさえ忘れており、勝利の報告の際には「何だそれは」と聞き返したという。その初戦は芝の800mというレースだったが、勝ちタイム48秒1は日本レコードで、上がり3ハロン35秒0は当時としては驚異的な走破タイムであった。

このレースでの結果を受けて、永田はパーフェクトの競走名をトキノミノルに変えることにしたという。この名前は「競馬に懸けた時が実るときが来た」という意味を持つというが、その「トキノ」は永田が尊敬していた菊池寛が使用していた冠名を借用したもので、日本ダービーを意識する期待馬のみに使用するものだったという。

成績こそパーフェクト

名前こそパーフェクトを返上したが、成績はまさにパーフェクトそのものだった。2戦目のダート1000mのオープン戦を快勝し、3戦目も同じくダートのレースとなる札幌ステークス(1200m)では、3戦3勝のトラツクオー(トラックオー)を相手にレコードタイムの大差勝ちする。

ここまで函館、札幌が舞台であったが、関東に移動して中山競馬場での芝のレースでも無双する。4戦目は中山での芝1000mで6馬身差勝ちのレコード、5戦目の中山芝1100mのレースも4馬身差のこれまたレコードタイム勝ちだった。迎えた3歳王者決定線となる朝日盃三歳ステークスでは初の重馬場となるが、これも問題とせず2着イツセイ(イッセイ)に4馬身差を付けて優勝する。

ダートも芝も重馬場もこなし、ここまで6戦6勝でうちレコードが4回というパーフェクトな成績で、クラシックでも当然のように最有力候補となる。あとは短距離系である父セフトの影響による距離適性だけが問題とみられていたが、4歳初戦となる中山芝1800mのレースでは59kgという酷量にも耐え、イツセイ(イッセイ)に3馬身差のレコード勝ちを収める。

次走の東京芝1800mも快勝し、ついにクラシック第一弾皐月賞を迎える。当日は、皐月賞史上最高の単勝支持率となる73.3%を記録する。これは今でも破られていない記録であるが、2位のディープインパクトの支持率が63.0%だったことからも、いかに凄い数字であるかが分かる。

レースはトキノミノルがいつもどおりスタートから逃げると、2着イツセイ(イッセイ)に2馬身差をつけて優勝する。タイムは従前のレースレコードを6秒1も短縮する、芝2000m2分3秒0という驚異の日本レコードであった。着差こそ2馬身だが、ゴール前では鞍上の岩下が後ろを振り向くほどの余裕のレースだった。

日本ダービー

ここまで9戦9勝、うち6回がレコードという突出した成績のトキノミノル。そんな注目馬が出たその年の日本ダービーは、7万人を超える観客が押し寄せ、初めて内馬場が幹線用に開放されたという。謄写版でなく初めて輪転機を使って印刷したという競馬新聞も、刷り上がったそばから売れて行ったとか。

トキノミノルは実績からも人気からも断然の1番人気となるはずだが、皐月賞に全く及ばない50%を少し超える程度の単勝支持率であった。その理由は、皐月賞のレース後に見られた歩行異常、続く右前脚の裂蹄、さらには騎手が脚の状態を心配したことで軽い調教となった最終調整に調教師が激怒するといった状況から、体調面の不安が囁かれていたためである。

馬主である永田は「出れば人気になるのは分かっている。ファンに迷惑は掛けられない」と出走辞退も検討したというが、関係者の懸命の措置により良化をきたし、当日には全く不安のない状態となったことで出走に踏み切ったという。しかし、田中調教師は調教手帳に「実に不安」と書き入れ、馬主の永田も「6月3日を足すと9、枠順も9、脚の故障が苦・・・」などと不安を漏らしていたという。

トキノミノルはスタートに失敗し、初めて他の馬に先頭を譲る形でのレースとなり道中は8~9番手を追走する。これは岩下騎手によると「脚に心配がなければ楽に逃げ切る自信はあった。しかし、この時は脚がもたないかも知れない、故障してしまうかも知れない、そう思うと怖くて行けなかった。」ということだったようだ。

しかし向こう正面から追って先行勢を交わしていくと、ゴールまで先頭で押し切り、イッセイに1馬身の差をつけて見事優する。第12回(1943年)にクリフジが記録したレースレコードより0.3秒速い、素晴らしいタイムだった。残る菊花賞はまず勝つであろうと言われ、馬主の永田は三冠が達成された場合は、史上初のアメリカ遠征を行うと発表した。

ダービーからわずか17日後

日本ダービーでの勝利から5日後、厩務員の村田から田中調教師に「元気がない、食欲もなくなっている」との報告がなされる。日に日に元気は無くなっていき、目が赤くなってきたことから結膜炎を疑い治療するが一向に良くならない。強心剤と輸液を投与するも状態は変わらず、ここでようやく破傷風を疑われ、血清とペニシリンが投与された。

次第に状態は悪くなり、硬直や接触・光・音に異常な反応をみせる破傷風特有の症状が現れる。 馬主の永田は「賞金などぜんぶ使ってもいいから、競走はできなくなってもいいから、命だけは助けてやってくれ」と関係者に頼み込んだという。実際、治療に投じられた費用は、日本ダービーの1着賞金の100万円(当時)を超えていたという。

その後、少し持ち直したことから快方へ向かうとの見込みもあったところ体調が急変し、全身の硬直を繰り返して終には嚥下障害となり薬の投与も不可能となる。最期は全身痙攣を起こして倒れた4時間後に敗血症でこの世を去ってしまう。懸命の治療が行われたが、悲しいかな当時はワクチンなどもなく、結局は為す術がなかったということだろう。

日本ダービーを勝利したわずか17日後のことだった。10戦10勝、うちレコード勝ち7回、皐月賞と日本ダービーの二冠達成という素晴らしい成績を成績を残して、あっという間に姿を消したトキノミノルは、「幻の馬」や「ダービーを勝つために生まれてきた馬」と言われた。

トキノミノルの死を悼んで造られた「トキノミノル像」は、東京競馬場のパドック脇に設置され、ファンの間で待ち合わせ場所としても定着している。そのトキノミノル像の視線を辿ると、果たせなかった三冠最後のレース、菊花賞が行われる京都競馬場があるという。

関係者の話など

岩下密政騎手
「文句なく速く、強かった。凄いバネとスピード、スタミナが共存していた」「一度でいいから4本脚で走らせたかった。いつも悪い膝を庇って3本脚で走って、7回もレコードで勝っているのだから、4本脚で走ったらどのくらい走るものか」

境勝太郎騎手
「桁違いの強さで競馬にならなかった。とにかく強かった。素晴らしかったと思う」

浅見国一騎手
「なにしろ強かった。トキノミノルが一番強かった。あんな馬見たことない」「生きていれば五冠は楽に取れた」

保田隆芳騎手
「先頭に行こうかなと思うのだが、いつもトキノミノルが前にいた。調子が悪かったダービーでも第2コーナーからはアッサリ。能力が違ったのだ」

作家の古井由吉
「シンザンも、テンポイントも、シンボリルドルフも、ナリタブライアンも追いつかないのではないか、と思うほどだ」

「優駿」編集者の福田喜久男
(常に逃げていた理由として)
「スピードの絶対能力が違うが故に、ただ単に先に行っただけと考えている」

田中和夫調教師
「トキノミノルは最初から飛ばして最後までスピードで押切るアメリカンスタイルの競馬だった。スピードの絶対値が違うからそういう競馬ができたんだろうね」

作家の岩川隆
「単なるギャンブルではない。それまで競馬に無関心だった人達も、天が与え給うたこの一頭の馬の無心で懸命な疾走を目の当たりにするために、競馬場に足を運び始めた」

競馬評論家の大川慶次郎
「競馬のファン層が増え、目立って据野が広がってくる場合には、節目にはやはりそれなりのスター・ホースが出現していたのが、日本の競馬の歴史を通じていえると思います。トキノミノルはその最初の例」

血統研究家の笠雄二郎
「トキノミノルのスピードは完璧といっていい」「無事ならセントライト以来の三冠はもちろん、セントライト以上の種牡馬となったであろう。急逝は馬産界にとって痛かった」

作家の吉屋信子
「トキノミノルは天から降りてきた幻の馬だ」

第19回日本ダービー馬「クリノハナ」
名門に入厩した良血馬1952年の第19回日本ダービーを制したのは、大東牧場で産まれた「クリノハナ」である。馬主は全日本馬主協会連合会(現、日本馬主協会連合会)の初代会長などを務めた「ミスター・ケイバ」こと栗林友二で、馬主として既に第12回(…
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Diomed(ダイオメド)といいます。1969年生まれのおっさんです。
競馬や馬券のこと、その他ギャンブルにまつわる話を思いつくままに書いています。

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