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第13回日本ダービー馬「カイソウ」

ダービー馬列伝
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当時の競馬をめぐる状況

カイソウが勝った第13回の日本ダービーは、1944年6月18日に東京競馬場で行われた。太平洋戦争(第二次世界大戦)の真っ最中であり、この日本ダービーの翌日から始まった「マリアナ沖海戦」において、アメリカ海軍空母機動部隊と対した日本軍の連合艦隊は壊滅的な敗北をくらい、日本の敗色は濃厚となっていった。そんな時代であった。

戦況の悪化に伴い、日本各地では競馬開催の中止が相次ぎ、横浜にはじまり阪神、札幌、函館、新潟、福島と次々に競馬場が閉鎖され、わずかに東京と京都でのみ「能力検定競走」として行われていた。よって馬券の発売もないため、出走馬の人気も全く分からず、観客も軍人や関係者のみの200人ほどという状況だった。

カイソウに乗って勝利ジョッキーとなった橋本輝雄騎手は当時を振り返り「スタンドは無人同然で、いかにも寂しかった。」と言うが、競馬の祭典という晴れの舞台で勝利したにもかかわらず、大きな歓声も拍手を受けることもできない無念を思うと、戦争により失われるものの重さを感じない訳にはいかない。

ただし、橋本騎手は6年後となる1950年の第17回日本ダービーを「クモノハナ」で制しており、今度は盛大な歓声を受けその無念を晴らしている。なお、当時言われていた「ダービーは2度勝てない」というジンクスを破る、日本競馬史上初のダービー2勝騎手となった瞬間だった。

カイソウが勝った1944年の第13回ダービーは、戦前最後の日本ダービーであるが、翌1945年と翌々年の1946年は、戦争の影響により日本ダービーは中止となっている。無観客、馬券無しで行われた戦前最後の日本ダービーと、終戦間もない日本ダービー再開(1947年)後4回目となる1950年の第17回日本ダービーを勝った橋本騎手ほど、戦中戦後の差を感じた者はいなかっただろう。

誕生から日本ダービー制覇まで

カイソウは1941年北海道の錦多峯(にしたっぷ)牧場で産まれ、札幌でのセリで建築業を営む有松鉄三に9000円で落札された。前年の日本ダービーを勝った名牝クリフジが4万、クリフジと同世代のトシシロ、ヒロサクラがともに6万で落札されていることから考えると高額馬とは言えず、そこまで期待された馬では無かったのかもしれない。

カイソウの父月友(つきとも)はアメリカの伝説的名馬「マンノウォー」を父に持つ持込馬で、競走馬として出走することがないまま1936年より種牡馬となった。当初は八大競走(今でいうG1レース)に勝つような産駒は出なかったが、このカイソウが日本ダービーを制した後は、1946年にミツマサが優駿牝馬を勝ち、ほかにもミハルオー、オートキツなどの活躍馬を出す成功をみせた。

1944年4月23日、京都競馬場の芝1600mでデビューしたカイソウは、惜しくもハナ差の2着に敗れてしまうが、5日後のレースで初勝利をあげる。そこから2か月半の間に3連勝、3着、4着、そしてまた連勝して8戦5勝の成績を残す。この間は全て杉村繁盛騎手が騎乗していたが、日本ダービーを前に橋本輝雄騎手が騎乗することになった。

橋本騎手を鞍上にカイソウは、前哨戦を勝ち日本ダービーに挑む。当日は、前日の豪雨のおかげで重馬場でのレースとなった。カイソウは第2コーナーから3番手の好位につけ、そのまま向こう正面を過ぎ第3コーナーでは早くも先頭に立ち、そのままシゲハヤに5馬身差をつけでゴールする完勝だった。

橋本騎手を含め関係者はみなダービー初勝利で、北海道産馬としても初めての勝利であった。鞍上の橋本騎手は「前走でカイソウに乗り、古馬相手に勝っていたから本番でも自信があった。」との弁を残しているが、これでカイソウは10戦7勝、4連勝でのダービー制覇であり、関係者はまだまだ強くなるという手応えがあったのでないだろうか。

ダービー後のカイソウ

半年弱の休養を経た秋初戦は吉田三郎騎手へ乗り替わり、8馬身差で楽勝する。続く無観客競走(菊花賞にあたる長距離特殊競走)でも見事に1位入線を果たし、クラシック2冠を達成したかに見えたが、なんと翌年1月になって競走不成立の裁定が下され、カイソウの2冠は幻に終わる。京都3000mの競争は、従来内回りから外回りの順に2周していたが、この競走に限り発走地点をずらした内回り2周に変更されていた。

しかし、騎手たちに周知徹底されておらず、結果的に全馬が従来通りの内回り→外回りのコースにより3100mの距離を走ってしまい、競走不成立とされたのだ。3着になった小西喜蔵によれば先頭の田中康三騎手騎乗のシゲハヤは内回りに行こうとしていたが、マツメイ騎乗の蛯名武五郎騎手が「外だ!外だぞ!」と言ったことから、全馬が外回りを走ってしまったという。

同じ12月にさらに2戦するも、カイソウは6着、12着と大敗してしまう。特に最後のレースとなった1級種牡馬選定レースでの12着という順位が響いたのか、カイソウは種牡馬となることはできなかった。また、カイソウの母・第二ベバウ(競走名ロンプ)は、帝室御賞典(小倉)に優勝するなど12勝をあげた強い馬だったが、軽半種(母方の血統にトロッターの血が混じっている馬で、純血のサラブレッドでない。)という血統だった。

そんな軽半種の仔であるカイソウもサラブレッドではなく、いわゆるサラ系(サラブレッド系種)に分類される馬であり、その点も種牡馬になれなかった理由だろう。戦時中のことでもあり詳細は分からないが、その後のカイソウについては、軍馬となったという説が有力である。

名古屋師団の岡田資中将の軍馬となったが、名古屋大空襲で厩舎が被災し数頭の軍馬が逃げ出したところにカイソウも混じっており、その際に亡くなったか行方不明になったという。「ダービー馬ともあろう馬が、種牡馬になった後廃用となったというなら分かるが、いきなり軍馬になることが有り得るのだろうか。」と疑問を呈する当時の競馬会職員の話もあるという。どっちにせよ、頂点を極めたダービ馬としては、悲しすぎる最期であった。

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Diomed(ダイオメド)といいます。1969年生まれのおっさんです。
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