第63回弥生賞(2026.3.8)
2026年の弥生賞(ディープインパクト記念)は、川田将雅騎手騎乗の3番人気バステールが優勝した。父キタサンブラックは弥生賞には出走しておらず、スプリングS(1着)から皐月賞(3着)と言う道を歩み、その後はG1を7勝するほどの日本を代表する名馬となった。
バステールは新馬戦で2着となるも、次戦の未勝利戦では単勝1.5倍の断トツ人気に応えきっちり初勝利を上げる。年が開けた初戦がこの弥生賞で、先の2戦で騎乗したC.デムーロから川田将雅騎手に乗り替わったが、川田騎手は見事に応え勝利した。
川田騎手によると「まだまだ幼い」ところがあり乗りにくいという話もあったようだが、それで3戦目にして弥生賞で差し切って勝利するのだがら能力は相当なものだろう。皐月賞だけでなくクラシック、また古馬になってからも大きな期待ができそうな馬である。
弥生賞を買った馬は、レース名ともなったディープインパクトのほかミスターシービー、シンボリルドルフといった三冠馬や、ダービー馬マカヒキ、タスティエーラが勝っており、名馬への登竜門となっていることからも期待は大きい。
しかし、昨年(2025年)の勝ち馬ファウストラーゼンはその後4戦して全て大敗(2026.3.9現在、現役)、2024年のコスモキュランダは皐月賞2着、有馬記念2着などはあるが12戦して勝ち星なしと、ここ数年は活躍場が出ていないため、バステールには奮起してもらいたい。
印象に残る弥生賞
弥生賞といえばまず私が思い浮かぶのが、私が初めてリアルタイムでレースを観戦した1989年、不良の鬼レインボーアンバーが勝った弥生賞である。1番人気のサクラホクトオーが不良馬場に苦戦するのを尻目に、2着に1.7秒と言う大差勝ちを収める。
武豊をして「これほどの不良馬場は初めて」と言わしめた2017年の秋の天皇賞。そのレースで13番人気ながら勝ち馬キタサンブラックの3着に入線して穴をあけたレインボーラインの母母父が、そのレインボーアンバーだったという話題で覚えている人もいるだろう。
そして、これは私が競馬をやる随分前の話であるが、よく読み聞きした「サルノキング事件」のサルノキングが、この弥生賞を勝っている。ミスターシービー(1983年)、シンボリルドルフ(1984年)という2頭の3冠馬がこの弥生賞を勝つ前、1982年のレースである。
サルノキングはデビュー戦で2着となるも、その後レコード勝ちを含む5連勝で挑んだ弥生賞でも勝利し、7戦6勝という成績でスプリングSに出走する。サルノキングが当然1番人気となるのだが、2番人気となったのが「華麗なる一族」出身の当時史上最高金額で取引されたハギノカムイオーだった。
レースはハギノカムイオーがスローペースのなか楽々と逃げ切り勝利を収めたのだが、1番人気のサルノキングがなんと11頭中の最後方、それも10番手の馬から離れたところにポツンし、さらに向こう正面からロングスパートした結果、4着に敗れてしまう。
サルノキング事件
サルノキングを信頼して買ったファンには、納得のできない結果だった。また東上してからのレースでは先行していたサルノキングが、ここで離れた最後方というレースをしたことも疑問だった。そして決定的だったのが、サルノキングの共有馬主であった中村和夫が、勝ったハギノカムイオーの共有馬主でもあったこと。
これらの事実から「賞金面で足りないハギノカムイオーを皐月賞に出走させるため、サルノキングを後方において負けさせ、かつレースをスローに落とした。八百長だ。」という疑義が、関東の調教師、マスコミ、ファンなどから噴出した。
中村調教師や田原騎手は「八百長ではない。東上したレースでは引っかかって先行することになったが、それではクラシックで戦えないと考え後方待機策を取ったのだ。」と弁明する。実際、関西でのレースでは後方からの追い込みに終始していたのだが、今とは違い東西の情報が伝わりづらい頃であり、関東のファンにとってサルノキングは先行馬と思われていたのだ。
また、騎手の田原成貴は派手で華麗な騎乗を好んでおり、ここでも「関東にファンにあっと言わせる」つもりで極端な競馬をしたという。また「性格的に田原なら、ハギノカムイオーを勝たせるために後方待機しろ、と言われれば逆に突っかかり潰しにいってもおかしく無い。」と関西の関係者は証言している。
よって、関西圏ではあまり疑念は無かったものの、関東では長い間この件に対するヤジなどは収まらなかったという。なお、サルノキングはレース中に骨折していたことも判明し、復帰を目指すも叶わず、このレースをもって引退となった。
父はテュデナム
私が思うに、この2頭の力は抜きんでており、普通に走って2頭のワンツーが可能であったろう。なので「ハギノカムイオーを勝たせるためにサルノキングが後方策から負ける」なんて方法を取る必要は無いし、八百長には思えない。
言うとすれば、「サルノキングは皐月賞に直行すれば良かったのでは?」ということ。弥生賞を勝った上、スプリングSを使う必要があったのか。今なら考えられないが、当時としてはそこまで厳しいローテーションでは無かったという認識だったのだろう。
今や内国産種牡馬がリーディングの上位を占めることが当たり前になっているが、当時は内国産種牡馬が成功することは困難であり、「競走馬であるうちに稼げるだけ稼ぐ」という考え方が横行していたことは否めない。「馬優先」という考えからは噴飯ものだが「経済活動」という観点からは、当時としては致し方ないところもある。
そんなサルノキングの血統だが父はテュデナムという、今は途絶えてしまったサイアーラインの種牡馬である。代表産駒はサルノキングのほかセントライト記念を勝ったホスピタリティ、中山記念などを勝ち有馬記念で2着になったテュデナムキングなどがいる。
自身はG1勝ち馬を出すことはできなかったが、産駒のホスピタリティから1989年の皐月賞を勝ったドクタースパートがいる。サルノキングも種牡馬となったが活躍馬は出ずに1993年に種牡馬を引退して、その後の消息は不明と言う。結局、サルノキングの名前は件(くだん)の事件名として残っているだけのようだ。

