1991年の菊花賞
古い話で申し訳ないが、今(2025年)を遡ること34年前の1991年の菊花賞の話をしたい。本当なら、皐月賞とダービーを勝ったトウカイテイオーが主役となるはずだったが、怪我で不在というレースだった。
1番人気は阪神3歳Sの覇者でNHK杯を制し(ダービーは回避)、京都新聞杯でナイスネイチャの2着となったイブキマイカグラ。この菊花賞も惜しくも2着であった。このイブキマイカグラは、G1タイトルは阪神3歳Sの1鞍に終わり、遂にクラシックタイトルを手にすることはできなかったが、豪快な追い込みで華のある人気馬だった。
2番人気はそのイブキマイカグラを前哨戦の京都新聞杯で破ったナイスネイチャ。同馬はこの時4連勝でこの菊花賞に挑んでおり、勢いを買っての人気だったが結果は4着。後にブロンズコレクターと呼ばれ、有馬記念の3年連続3着を含むG1での3着が4度という不滅の記録を持つが、この菊花賞の他に天皇賞春、天皇賞秋、宝塚記念でも4着で、G1での4着も4回という見事さである。
3番人気がトウカイテイオーに負けたダービーで2着となった、レオダーバン。トウカイテイオーがいないこの菊花賞で是非クラシック制覇を成し遂げたいところ、見事、このレースを勝利する。
フジヤマケンザン
そんな、1着レオダーバン、2着イブキマイカグラ、4着ナイスネイチャという名だたる名馬の中、3着になったのが、このレース8番人気だったフジヤマケンザンである。デビューは1991年の1月6日というから、イブキマイカグラは既に前年阪神3歳Sをもう勝っている時期だ。
そのデビュー戦は6番人気で5着と、後の活躍を見て取れるようなレースではなかった。ちなみにこの時の場体重は556kgと大柄で、ハード調教で知られる戸山為夫調教師(ミホノブルボンを育てた名調教師)にあっても、脚元を考慮して強い調教はできなかったという。
2戦目を何とか勝ち上がるも怪我で休養し、明けた秋の900万下条件戦を格上挑戦ながら勝利し、菊花賞を目指し次の嵐山Sに出走するも2着。菊花賞は除外対象であったが、直前になって回避馬が出たため菊花賞への出走が叶った。
フジヤマケンザンという馬名は、馬主の冠号フジヤマと、剣山(ケンザン)から成る。なお、遠征先の香港競馬ではケンザンを省略し「富士山」と表示されていた。野武士というかサムライ的というか、渋くて堅強な素晴らしいネーミングである。
フジヤマケンザンはこの菊花賞で3着と健闘し、以降のG1での活躍も期待されたが、この年のジャパンカップと有馬記念では8着、10着と伸び悩んだ。なお、この菊花賞などを含むデビューから15戦の鞍上は戸山厩舎所属の小島貞博だった。
小島貞博騎手
小島貞博はこの菊花賞当時39歳であったが、まだ平地でのG1勝利はなく、翌年1992年にミホノブルボンでようやく初のクラシックである皐月賞・ダービーを制した遅咲きの地味な騎手である。
95年にもタヤスツヨシでダービーを制しているなど実力のある騎手ではあったが、戸山調教師をして「人気よりも腕があるという言い方よりも、腕よりも人気がない」と言わしめる程、何故か人気のない騎手だった。晩年は調教師となったが、親族の借金の肩代わりなどもあって厩舎経営が困難となり、60歳という若さで自死している。
フジヤマケンザンはその後9歳まで走り続け、9歳時には金鯱賞で当時3頭目となる9歳馬による重賞制覇を成し遂げている。最終的には香港国際Cを含む重賞を5勝しており、長く活躍し渋い人気を誇った。ちなみに、種牡馬として5年間供用されたが、登録された32頭の産駒から目立った活躍馬は出なかった。
この年の菊花賞は、フジヤマケンザンの3着を含め、何故か記憶にずっと残っている。ちなみに、馬券はナイスネイチャから買って外れている。
