レース前の状況
第5回の日本ダービー(東京優駿大競走)は、曇天であったが前日からの雨の影響でまたしても稍不良馬場でのレースとなった。これで創設以来5年連続での道悪での開催である。出走するメンバーについては、今までの4回とは違って第5回日本ダービーは、確たる人気馬がおらず混戦模であった。
その混戦を制したのは5番人気の「トクマサ」だった。当時二大種牡馬として君臨していたうちの1頭、トウルヌソルを父に持つ牡馬である。両種牡馬の日本ダービーの成績は、第1回をトウルヌソル産駒のワカタカが勝利し、第2回~第4回を全てシアンモア産駒(カブトヤマ、フレーモア、ガヴァナー)が勝つという独占状態だった。
第5回日本ダービーの勝ち馬である「トクマサ」は、そんな偉大な種牡馬トウルヌソルを父に持ち、母はイギリスから輸入された基礎牝馬である種正(タネマサ、血統名はヤングマンズフアンシー)という良血馬だった。期待されたトクマサだったが、デビューから5戦して1勝と思ったほどの活躍はできなかった。
出走頭数は13頭で、押された1番人気は、それまでのレースでの好内容から期待された名門小岩井農場の最高価格馬パプステツドであった。パプステツドと人気を分け合ったマルヌマが2番人気。ハツピーライトが3番人気、牝馬ピアスアロートマスが差が無い4番人気と続く。
トクマサはそれらに続く5番人気だったが、結果は配当上限を超えたというから、5番人気とはいえ上位とは離れたかなりの人気薄だったようだ。なお、ハズレ券にも9円50銭の特別配当がなされたという。なお当時の馬券は1枚20円でトクマサの単勝は上限の200円(10倍)であった。
当時の日本について
第5回日本ダービーが行われたのは、昭和11年(1936年)の4月29日。当時の日本は昭和恐慌よって社会全体が経済的不安に包まれ、特に農村はひどい貧困に喘いでいる状況であった。そんな中、競馬が行われ馬券の発売がなされていたことには驚くとともに、競馬と言う文化を守ってきたことには頭が下がる。
この年、そんな世の中を案じて、若き青年将校たちが天皇を中心とした国家改革を目指してクーデターを起こす。それが1936年2月26日に起こった、二・二六事件(5名の警察官が殉職)である。日本ダービーはこの事件からわずか2か月後に行われていたのだ。
レースについて
ハツピーライトがスタートを決めるが、1コーナー付近で4番人気の牝馬ピアスアロートマスが先頭に立つ。これにマルヌマ、マリーユートピア(6番人気)、パプステツド、トクマサが続く。直線に入って4番手を追走していたトクマサが伸び、鞍上伊藤正四郎騎手は鞭が折れ曲がるほどの気合の騎乗を見せ、逃げ込むピアスアロートマスをアタマ差交わしたところがゴールだった。
レース前、調教師の尾形藤吉(景造)は重馬場を得意とする第8レースの勝ち馬フソウが履いている蹄鉄を見て、競馬場に近い自宅からアメリカ製のスパイク鉄(翌年から使用禁止)を取り寄せ、トクマサに履かせて出走させたのが良かったのかもしれない。なお、このレースで伊藤正四郎騎手が使った折れた鞭は、トクマサを生産した下総御料牧場で「勝利の鞭」として保存されている。
トクマサのその後
ダービーを勝利した後、6月には横浜競馬場で行われた帝室御賞典に優勝し、翌1937年には、目黒記念、中山記念を制するなど通算27戦9勝という活躍をみせた。日本ダービーを勝った時点では6戦2勝と、さほどでもない成績であったが、その後は活躍しており晩成タイプだったのかもしれない。
1937年11月に引退、「得正」の名で種牡馬として供用された。血統的にも成績からも期待されていたと思われるが、名を残すような産駒を産み出さないまま太平洋戦争下の混乱で行方不明となり、1943年以降の消息は不明という。


