初めての東京競馬場での日本ダービー
第3回の日本ダービーは1934年4月22日に、晴天ながらも前日の雨の影響もあって、第1回、第2回に引き続き不良馬場で行われた。日本ダービーというのは実は副称で、正式名称は東京優駿という。なお、今に至るその呼び名「東京優駿(日本ダービー)」となったのは1964年からである。
本レースが創設された1932年は「東京優駿大競争」と呼ばれ、これは1937年まで続いたから、この第3回も正式には「東京優駿大競争」という。その第3回東京優駿大競争は、前年に目黒から移転された現・府中の東京競馬場で行われた初めてのダービーである。
昭和初期の日本競馬を支えたのは、トウルヌソルとシアンモアの二大種牡馬であるが、第1回日本ダービーをトウルヌソル産駒のワカタカ、第2回日本ダービーをシアンモア産駒のカブトヤマがしており、この第3回ダービーもその二大種牡馬の対決になるかと思われた。
しかし、第3回日本ダービーの大本命は、クラツクマンナンの産駒ミラクルユートピアという馬で、「ダービーの優勝はまず不動」まで言われていた。種牡馬クラツクマンナンは、帝国競馬協会が日本の馬匹改良のため種牡馬の輸入をした事業の第1号で、1933年にはリーディングサイアーを獲得するなどの成功を収めた名種牡馬である。
大本命ミラクルユートピア
ミラクルユートピアは、1934年1月6日に鳴尾競馬場 (現・阪神競馬場)でデビューすると新呼馬戦を7馬身差のレコード勝ち、続く新呼馬優勝戦を9馬身差でこれもレコード勝ちすると、一躍ダービーの本命となる。さらに4月15日に東京競馬場での帝室御賞典に出走すると、ここでも前年のダービー馬であるカブトヤマを下してレコード勝ちする。
「ダービーの優勝はまず不動」とまで言われることも頷ける、すさまじい成績である。しかし、ミラクルユートピアはダービー馬になることはできなかった。ダービー当日の早朝、最終調整として内馬場のダートコースにおいて軽めの調教を行ったところ、前に少し躓いてしまい左前肢を捻挫脱臼(のちに骨折)してしまう。
これが「世界のダービー史上でもかつてない不幸な出来ごと」とまで言われた、ミラクルユートピアに起こった不運である。幻のダービー馬と言われる馬は日本競馬史上いくらでもいるが、このミラクルユートピアが「史上初の幻のダービー馬」ではないだろうか。
なお、ミラクルユートピアはダービーへの出走取消だけでなく競走生命まで絶たれてしまい、そのまま引退することとなった。この怪我が無ければ、間違いなくダービーに勝ち最強馬としてその名を残していたに違いない。ミラクルユートピアは種牡馬となったが、G1相当の大レースを勝つような産駒を出すには至らなかった。
第3回日本ダービー
ミラクルユートピアの出走取消により、2戦2勝のフレーモアが押し上げられ単勝オッズ2倍の1番人気となった。2番人気は先の帝室御賞典でミラクルユートピアの2着だったテーモア。スタートからまもなくフレーモアが先頭に立ち、マイペースで逃げる。
フレーモアの脚色は最後の直線になっても衰えず、テーモアの追撃を振りきり優勝した。2着のテーモア、3着のデンコウの3頭全てが尾形景造(尾形藤吉。1911年から1946年までは「尾形景造」と名乗っていた。)調教師の管理馬であった。歴代最多(8回)の日本ダービー勝利調教師となる尾形にとって、これが最初のダービー制覇だった。
フレーモアのダービー制覇は「府中最初のダービー馬」「秋田県産の日本ダービー優勝馬」(今でも唯一の例)「初の個人牧場生産馬の優勝」であり、1~3着まで同一管理調教師(今でも唯一)など、記録づくめの勝利だった。
フレーモアは、その後帝室御賞典を勝つなど活躍し、13戦7勝(5着以下無し)の成績を残し、ブラオンジヤツクと名を変え種牡馬入りした。種牡馬として2頭の中山大障害優勝馬を輩出したが、それ以上の活躍をみせる産駒は出なかった。1945年に廃用され、その後戦後の混乱で消息不明となったという。


