二大種牡馬
第1回日本ダービーは、トウルヌソル産駒であるワカタカが勝利を収めた。トウルヌソルは1935年から1939年にかけ、5年連続で日本のリーディングサイアーを獲得した昭和初期の大種牡馬である。その産駒からは第1回のワカタカを含む6頭のダービー馬を輩出しており、これは7回でトップのディープインパクトに次ぐ2位(サンデーサイレンスが同数で2位)という素晴らしい記録である。
しかし、第2回日本ダービーは当時二大種牡馬と言われたシアンモアの産駒に人気が集まった。なお、第1回日本ダービーの2着オオツカヤマも、そのシアンモアの産駒であった。その後第3回、第4回と3年連続シアンモア産駒が日本ダービーを勝ったが、続く第5回、第6回はトウルヌソル産駒が勝利してリベンジを果たした。
いつの時代も2強対決というのは見ごたえがある。阪神VS巨人(強くない?)もそうだし、大鵬と柏戸の柏鵬時代というのもある(古い・・・)。将棋界も、藤井聡太を追いかける伊藤匠との2強時代に突入すれば盛り上がること間違いない。この宮内庁下総御料牧場のトウルヌソルと小岩井牧場のシアンモアという二大種牡馬の対決も、昭和初期の日本競馬を支えた見ごたえのある対決であったに違いない。
トウルヌソル
トウルヌソルはプリンセスオブウェールズステークスを勝つなどイギリスで活躍した競走馬で、ゲインズバラ(ゲインズボローとも言う)の産駒である。ゲインズバラはその産駒ハイペリオンの活躍で2回リーディングサイアーとなり、さらにその仔ハイペリオンは5度のリーディングサイアーに輝いている。
そんな血統的背景のあるトウルヌソルが、この時代に輸入できたことは日本競馬最大級の幸運と言われ、昭和初期の日本競馬の発展に重要な役割を果たした。当時10万円で購入されたというが、これは現在の価値にして10億円は下らないという。これだけの馬を当時輸入する決断をした関係者の炯眼には恐れ入る。
シアンモア
シアンモアはイギリスダービーで3着になるなどの成績を残したあと日本に輸入され、小岩井農場で繋養され種牡馬となった。ダーレーアラビアンに繋がるキングファーガス系(エクリプス系)の種牡馬で、盛岡競馬場で行われる「シアンモア記念」にその名を残す昭和初期の名種牡馬である。
産駒デビュー1年目に日本ダービー2着のオオツカヤマを輩出し、第2回日本ダービーでは産駒カブトヤマが勝利を収める。そこから続けて第3回のフレーモア、第4回のガヴァナーを出し、3年連続産駒が日本ダービーを制するという活躍をみせる。このシアンモアも当時12万円という高額で購入されたというが、その金額に見合う種牡馬成績であった。
第2回日本ダービーのレース内容
第1回日本ダービーは雨の不良馬場で行われたが、第2回も曇天の稍不良馬場のなかでのレースとなった。なお、この年(1933年)の秋に現・府中の東京競馬場へ移転されたため、この第2回日本ダービーが、東京競馬場以外で行われた(目黒競馬場)最後のダービーである。
1番人気はシアンモア産駒の評判馬である牝馬アスリート。2番人気は不良馬場での勝ち星が評価された、こちらも牝馬のトウルヌソル産駒のハツピーランド。そして、3番人気がシアンモア産駒の牡馬であるカブトヤマ。カブトヤマは母アストラルと同じく不良馬場が苦手とみなされて人気を落としていた。
19頭の出走に対して11頭が牝馬で、調騎分離の以前の時代のため19頭のうち6頭が調教師と騎手が同じというメンバーだった。15番人気という人気薄のケゴンが逃げ、勝ったカブトヤマが好位につける展開。第3コーナーで調教師兼騎手の大久保房松が早仕掛けから先頭に立つ。
そこに8番人気のメリーユートピアが並びかけ、一度は先頭に立つがカブトヤマも抜き返しにかかり、そこからは一騎打ちとなった。最後は4馬身もの差をつけてカブトヤマが勝利を収める。悪い馬場にもかかわらず、前年のワカタカが日本ダービーを勝ったタイムより4秒も速いレコードであった。
鞍上の大久保房松は減量に失敗して前日から風邪をひき、当日も39度の熱があり一度は騎乗を辞退したが、馬主の前川道平に「僕は君のためにこの馬を預けた。もしダービーを勝っても騎手が君じゃなかったらあまり嬉しくはないだろう。」と言われて騎乗を決意し、見事その期待に応えた。騎乗後は不思議なことに、熱は完全に下がっていたという。
※ 日本ダービーの賞金が1万円だったこの時代に、カブトヤマは伊勢丹の社長である前川道平と調教師兼騎手の大久保房松によって2万150円という高額で落札されている。
引退後のカブトヤマ
ダービー後も帝室御賞典を勝ち、5度のレコード出すなど活躍して種牡馬となったカブトヤマは、結果的に産駒で重賞勝ちした馬は1頭だけであったが、その1頭であるマツミドリが戦後初の日本ダービーとなる1947年第14回日本ダービーを勝ち、史上初めてとなる親子2代での日本ダービー制覇を達成した。
ここから「ダービー馬はダービー馬から」という言葉が生まれたというが、血統のスポーツである競馬における理想の姿である。また、カブトヤマはその全兄弟となる2歳下の弟(父母ともに同じ全兄弟)ガヴァナーが第4回日本ダービーを制覇し、こちらも史上初の兄弟制覇を成し遂げている。
そして内国産種牡馬として初めてダービー優勝馬を出したカブトヤマの偉業を称え、1947年に中山競馬場の芝1950mの4歳(現3歳)限定の重賞競走として「カブトヤマ記念」が創設された。1956年から東京競馬場での施行に変更となり、「残念菊花賞」としてレベルの高いメンバーが顔を揃える高レベルのレースだった。
しかし、ビクトリアカップが創設されるなど競争体系の変更に伴いレースのレベルが低下したことで、1974年からは父内国産馬限定戦に変更され、さらに1980年からは開催地が福島競馬場へと変更された。そこからは福島記念と並ぶ秋の福島開催の名物レースとして親しまれてきたが、2003年をもって廃止されることとなった。
これは、種牡馬リーディング上位を内国産種牡馬が多数占めるようになったことで、当初の目的である父内国産馬奨励が達成されたことによるものである。そして2008年には中日新聞杯も父内国産馬限定から混合競走に変更され、中央競馬の父内国産馬限定重賞競走は姿を消すことになった。
レース名からは名前が消えてしまったカブトヤマだが、初の親子ダービー制覇、初の兄弟制覇など数々の偉業が霞むことはない。しかし、その偉業の割に低い知名度から、その偉業が忘れられていくことは少し寂しい。セントライトやディープインパクトなどレース名となった名馬たちは、兜山を除き全て顕彰馬となっているという。

