「ハイセイコー」ブーム
日本における競馬ブームは2回あった。第一次競馬ブームは、1973年の「ハイセイコー」が主役だった。地方競馬から移籍したハイセイコーは、その評判に違わぬ強さを見せ、無敗のまま皐月賞を制した。 皐月賞を勝った時点で既に競馬界を超えた社会現象とまでなっており、「三冠は確実」とまで言われる。
そして、まずは大目標である2冠目ダービーを目指して、前哨戦であるNHK杯へ出走する。 そのNHK杯は、単勝支持率83.5%、単勝・複勝ともに元返しという人気のなか、終始インに閉じ込められ鞍上の増沢末夫も「よくて3着か」と思うほどのレースとなってしまう。 ゴールまであと200mの時点でもまだ4番手の上、脚色は悪く、誰もが敗戦を覚悟したところ、インから鋭く伸び、先頭のカネイコマにアタマ差をつけて交わしたところがゴールだった。
このレースにより「ハイセイコーは負けない馬」との狂信的な認識が広まり、ダービーでの勝利はもはや既成事実と言った様相を呈するまでに至った。 ダービー当日の東京競馬場には13万人ものファンが駆けつけ、単勝支持率は当時ダービーでは最高の66.6%(のちに73.4%でディープインパクトが更新)に達し、テレビ中継はNHKが20.8%、フジが9.6%の高視聴率だったという。
ハイセイコーのダービー
そんな注目の中、ハイセイコーは先行策を取れず、インの10番手という最悪の位置取りを余儀なくされる。NHK杯の二の舞を避けるため、早めに外に出した増沢は、3コーナー過ぎから2番手まで進出し、直線では一旦先頭に立つもその直後タケホープとイチフジイサミに交わされる。
悲鳴にも似た歓声を受けながら走り続けるハイセイコーであったが、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に破れ、不敗神話はあっけなく散ってしまう。 しかし、この敗戦により人気は落ちるどころかむしろ上がったという。 その後は菊花賞でまたしてもタケホープに破れ、のちには宝塚記念を勝つなど力のあるところを見せるが、ダービー後は11戦して3勝しかすることができなかった。
引退まで人気は衰えることはなく、引退レースとなった有馬記念2着の翌月に発売した「さらばハイセイコー」(歌は増沢末夫)のレコードは、50万枚もの売り上げを記録したという。 たった1頭の競走馬が何故ここまでの人気を画すことになったのか。
人気の秘密
弱小の地方競馬から乗り込んで中央の馬たちを蹴散らすという構図が痛快であったとよく言われるが、実はハイセイコーは訳あって地方からデビューしたもので、血統や調教での動きはそもそも中央レベルの馬であった。よって、その構図はいわば虚構なのだった。
他にも色々と言われてはいるが、実のところはよく分からない。 それはどうあれ、それまで競馬を敬遠していた女性や子供といったところにファン層を広げ、競馬という競技が一定の市民権を得る事ができたことは競馬界にとって大きなプラスであり、たった1頭の馬が競馬界を支えてくれたと言っていい。
どんなスポーツも、一部のコアなファンだけのものになってしまってはいけない。「理解の深い者だけが楽しむことのできる自分達だけの世界」というのも楽しみ方の一つではあるが、それが嵩じると結局はその世界自体を維持することができなくなる。 運よく中央競馬に関しては、その後も第二次競馬ブームとディープインパクトの登場により未だ人気を維持しているが、そろそろ新しいヒーロー、ヒロインの登場が待ち焦がれるところである。
